英国の暮らしとフローラルデザイン-1
モリスによれば「芸術の最高の形態は建築」であると。「日常生活の芸術こそが芸術のもっとも偉大な側面」と、説いていたことと建築が繋がる。さらには「建築は(家屋敷)は庭に囲まれてなければいけない」とも。非日常であるオペラなどの芸術観賞と日常である家。その両方に美が存在する、と、思っただけで生き甲斐が増える。
私が初めてイングリッシュガーデンに出会った時、まず最初に注目したのが庭と公園の違いだった。庭には、その庭にふさわしい建築(個人住宅)が不可欠だと思えた。家という芸術作品と庭の調和。これが理想だったのだ。人が本能で求める幸せの原型は「家庭」家と庭なのであった。(ま、ちょっとこの家は大きいですが、これもワンファミリーが住んでいた家)
そのことが、150年も前にしっかりと定義されていたのも素晴しい。行き当たりばったりに偶然そこに庭や家があったのではなく、デザインという意思が、強く働いて2度の大きな世界大戦でも守られて来た。イギリスにも食うや食わずやの時代が多々あったと思う。
行き当たりばったりに家も庭も街も国土も、当座都合で開発してしまった国から来た私には、イギリスの風景の、そのすべてが驚きだった。
なんとなくきれい。なのではない。
デザインされた自然。
モリスは常に「庭は建築をまとっていなければならない。建築と庭は統一されているべきである。室内と庭も繋がるべきである」とも説いた。
写真、一番上はグレートディクスター外観。16世紀建築本体にサー・エドウィン・ラッチェンスにより、アーツ&クラフツ様式のリノベーションが施された内装。以下の写真は全部その室内。室内も、花と花柄が溢れている。普段は未公開のプライベートの空間で、そこにもここにも花。
そして
自然と共鳴させながら庭を作ること。
さまざまな示唆に触れてのち、イギリスの住宅の室内装飾に、だてに花が飾られているわけではないことを知る。というか感じることとなる。
これにはいつも驚ろかされた。とんでもない国民的美意識である。たまに出会う人々、芸術家とかデザイナーという職種ではなく、普通のバンカー(銀行員)とかサラリーマンが室内装飾やランドスケープにこだわってそれ(*)を持っているのである。驚いた。
(*=日常生活の芸術こそが芸術のもっとも偉大な側面であるという意識)
そしてさらに私は心打たれる「意識」にであう。それはまた後日に。